2005.4.より登山順
能美古墳群辰口周辺三角点
[加賀] 和田山 36 m (能美市和田町)46 [加賀] 末寺山 44 m (能美市末寺町) [加賀] 秋常山 37 m (能美市秋常町) [加賀] 西山 24 m (能美市高座町) [加賀] 寺井山 19 m (能美市寺井町) [加賀] 湯ノ屋山 75 m (能美市辰口町) 辰口付近三角点・・石川県十名勝。 |
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第15回 2024.03.03. 資料館-「和田山」-「末寺山」 第14回 2023.01.22. 資料館-和田山-末寺山-秋常山-西山-寺井山 第13回 2021.06.13. 資料館ー和田山―末寺山-秋常山 第12回 2020.11.03. 和田山歩き、末寺山歩き、能美ふるさとミユージアム。 第11回 2019.12.07. 和田山・末寺山と十名勝探索。 第10回 2017.01.31. 石川縣十名勝探索 第09回 2017.01.28. 能美古墳めぐり。ブッショウジヤマ古墳-和田山古墳-末寺山古墳-秋常山古墳。 第08回 2017.01.26. 史跡公園駐車場より。和田山の半分を周る。 第07回 2016.01.13. 史跡公園駐車場より、和田山・末寺山・秋常山と回る。 第06回 2013.02.09. 史跡公園駐車場より、和田山-末寺山を一周。 第05回 2011.07.29. 秋常山歩き 第04回 2010.09.12. 辰口方面の三角点探訪で「湯ノ屋山」、「末寺山」三角点。 第03回 2009.12.30. 末寺山より和田山の後山へ 第02回 2008.12.29. 秋常山初歩き 第01回 2006.05.22. 史跡公園駐車場より一周 |
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2024年03月03日(日)15回 資料館-「和田山-「末寺山」 ひな祭りは冬に逆戻り。S女史と「能美古墳群」徘徊。午後から雨か雪の予報。「和田山」の麓のミュージアムに大きな駐車場がある。9時30分。 目の前の階段を上がる。 「霊碑」のある広場。和田山古墳群と和田山城址がある。 一本の梅の木に、赤と白の花がついている木があった。源平咲きと云う。 旗の色が、白が源氏で赤が平家だった。 アセビ 和田山城址には寄らず、古墳群の横を進む。 円墳が幾つも並んでいる。整備されていて藪は無し。 下のキャンプ場辺りは、一年前からリニューアル工事中だったが完成したらしい。 尾根沿いに一列に円墳が並んでいる。 一度、下に降りる。 和田山は、次の古墳の山に続いていたが、間の土砂が採掘されてこの平地になった。 すぐ先の残りの和田山に登る。大きな前方後円墳がある。 間の平地がリニューアル完成らしい。 「和田山5号墳」がある。前方後円墳である。 古墳の裾を回ると「白髭神社」の裏に出る。正面に周り階段を降りる。 「白髭神社」は珍しい。「石川縣十名勝」になっている。石碑があったが無くなった。石の鳥居も無くなった。地震の為だろう。 末寺町の信号交差点を直進し、末寺町のはずれ近くの民家の間に「末寺山古墳群」に上がる道がある。 梅の木があった。今日はひな祭り。 昔はこの道に民家のお墓があった。お墓は集団移転して今は残骸か残る。 十字路に出た。右手にあずま屋と三角点ピークが見える。あずま屋で食事をするのは早いので、反対側の道に入り古墳群の外側の遊歩道を回って見る事にした。 この遊歩道は初めてだな。 藪が無い。手入れしてある。 「末寺山7号墳(円墳)」 「末寺山10号墳(円墳)」 色々あるな。 末寺山の入口まで周ってきた。 入口の案内板。古墳がだいぶ削られているのが判る。 ここからまた本道の、向かい側の遊歩道を登る。 この遊歩道は何度も通っている。しかし今回は良く藪を刈ってある。 「末寺山2号墳(前方後円墳)」の上に三角点がある。 藪が無いのですぐ見つかった。「3等三角点・点名は吉森・44m」。ここが末寺山頂上である。 目の下にあずま屋。 広場に降りてあずま屋で昼食。後ろの高みは水道施設。木が刈られて良く見える様になった。 あずま屋の目の前の三角点ピーク。今日も風が強く寒くて手が凍える。ホットコーヒーが上手い。ひな祭りに因んだ菓子が出てきた。いつもサンキュー。 下山開始。真ん中の本道で降りる。 民家の梅が満開。 リニューアル完成のキャンプ場を戻る。 通り抜けるとすぐ車を置いた駐車場だ。まだ午前中。雨の降る前に戻れたな。 ■次回登山は、3/7「阿稜山」へ■ 2023年01月22日(日)14回 和田山‐末寺山‐秋常山⁻西山‐寺井山 能美古墳群は「和田山・末寺山・秋常山・西山・寺井山」の五つの古墳群を云う。全部一遍に続けて歩けるが、老人と足を痛めている相棒は、途中車で移動して全部廻って来た。10時に「能美ふるさとミュージアム」車を置く。ここに車を置いて末寺山に登ろうと考えていたが、子供の広場やキャンプ場が工事中で通れない。 いつもの通りミュージアムの横から「和田山古墳軍」に登る。 「霊碑」があり、和田山城跡や和田山古墳の案内板がある。 案内板の「能美古墳群」の空から見た写真。 五つの山(古墳群)が載っている。 西山と寺井山は今回が初めてである。 和田山古墳群を歩いてゆく。 一列に並んでいる。 昨夜少し雪が降った。 一度古墳を降りる。 すぐ向かい側の斜面を登る。この間は昔は続いていたが土砂採掘で分断された。間のキャンプ場は工事中。 こちらには大きな前方後円墳がある。 前方後円墳の先に「白髭神社」がある。 階段降りて正面に周る。境内に「石川県十名勝」の碑がある。山では「寺尾観音山」も選ばれている。 末寺町の車道を歩いて、町の西から「末寺山古墳群」に登る。音内板からすぐに、右へ分岐がある。 今日はこの分岐から登る。ドングリころころ。 この道はいつもは藪っぽいが、最近下刈をしたようでとてもすっきりしている。 こんなにスッキリしている末寺山は初めてだな。 「末寺山2号墳」の上に三角点がある。ここが末寺山頂上。 「3等三角点」点名は「吉森」標高は「44.3m」。向こうにあずま屋が見える。その向こうは水道施設。 あずま屋に降りて昼食。目の前が三角点ピーク。 下山開始。真ん中を走る中央歩道を戻る。重機が入ってドロドロ道。 こちらにも古墳が並んでいる。こちらもよく整備されている。藪が無い。 末寺町より、工事中の広場部分を遠回りして一度車まで戻る。 なかなかの大工事中だ。車に乗り「秋常山古墳群」に向かう。 秋常町の北、秋常山古墳群の駐車場に移動。車の前にトイレ寮がある。秋常山古墳群には二つの古墳がある。 北陸で最大級の「前方後円墳」に登る、 前方後円墳の「前方墳」に登ると、左に和田山、右に末寺山。 「秋常山2号墳」が見える。今日は登って来なかったが、中の石棺が覗けるようになっている。展示室もあるが、冬は閉館のハズだ。 前方後円墳の「後円墳」の上に登る。高い。下に置いた車か見える。遠くに手取フィッシュランド。 和田山と末寺山 今度は「西山古墳群」の方へ降りる。古墳に石が敷いてある。昔は全体に石があったらしい。 秋常山古墳群より降りて、反対側の「西山古墳群」に入る。最近になって発掘調査しているようで初めて入る。道路は鉄板が敷いてあり工事中。突き当りが古墳らしく上にブルーシート見える。 この先鉄板道路は下へ降りている。民家が見える。降りて見なかったが発掘調査中と思われる。 西山古墳群から戻って、秋常山の裾を廻って駐車場へ。 トイレ寮休憩所より駐車場。車に乗り「寺井山古墳群」に移動。 三道山町のはずれにある小さな古墳群。昔は大きかったが開発されて住宅地になっている。道路の広い所に車を置く。 これが「寺井山古墳群」の全景。遠くに山並み。近くは和田山と末寺山。一応これで「能美古墳群」の5っつの山を全部回った。 帰りに吉光町の「吉光の一里塚」による。昔の北国街道にあった一里塚で、石川県で唯一つの現存の物。 小松市の我が家の前の道路は「北国街道」である。ここから道が続いている。しかも近くに一里塚があったらしい。 ■次回登山は、2/6「加賀市中央公園」を散策■ 2021年06月13日(日)13回 「資料館・和田山・末寺山・秋常山」散策 急に暑くなって介護人S女史とボケ老人、お互いに元気が無い。それでも余り歩かなくてよい「能美古墳群」を徘徊に行く。能美市の「和田山・末寺山古墳群のふもと、「能美ふるさとミュージアム」の駐車場に車を置く。まだ入館した事が無い女史を案内。老人は200円。古墳の埋蔵品や能美市の自然紹介、これは「白山曼荼羅」である。眺めていると中々楽しい。11.00。 見学を終えて、靴を履き替えて、ミュージアムの後ろの階段坂を登る。 すぐ和田山の「忠霊塔」に出る。裏に回ると、 和田山城址がある。古墳を利用した中世の山城である。一向一揆で活躍した和田坊主が築城した。和田の地名はここから来ている。 古墳の並んでいる尾根を歩いて居行く。 この古墳には「オカトラノオ」がいっぱい咲いている。 この古墳から「二年」刻書した須恵器が見付かっている。と書いてある。ミュージアム館に本物が飾ってあった。 この低い23号墳から見っかッたらしい。 一度山から降りるが、向かい側の階段を登る。 こちらの和田山には、大きな前方後円墳が一つある。 ササユリ 古墳の上に ネジバナ タンポポ 前方後円墳を過ぎると「白髭神社」がある。お参りして長い石段を降りる。鳥居があり「石川縣十名勝」の碑がある。末寺山古墳に登ろうと、末寺町の中を歩き信号を渡り、いつもと反対側から登る予定で直進する。こちら側へ降りた事があるが、こちら側から登ったことが無い。 町を抜けた所に登山口の案内標識があった。熊に注意の張り紙がしてある。以前と違う気がするし、入って見たら藪で道が見付からない。地図を調べたら町の中から山に入る道がある。以前通った道だ。 町の中へ戻り、民家の間に登山路を見付けた。民家を通らない道は藪になった様だぞ。 民家の中の道は墓地を通るが、墓は全部移転したようだ。廃墟だけが残っている。登り切った十字路に案内標示があった。右に行けば藪漕ぎで登り口に出る様だ。 左に上ると広場があり、あずま屋と三角点ピークが向かい合っている。 まず、あずま屋に入って昼食。今日は風が無く、藪蚊に悩まされる。いよいよ虫の出る頃になったな。 食事を済ませて目の前のピークによじ登る。
下りは、中心部の道を降りずに、藪化してきている、円墳が並ぶ道を降りた。また末寺町を抜けて一度車に戻る。車で「秋常古墳」に移動する。 適当に走ったら「秋常八幡宮」に着いた、後ろに古墳がそびえている。前に一度ここから登った。 神社にお参りして、右横から古墳に登る。「秋常山一号墳」の、前方後円墳の真ん中まで階段が続いている。石川県最大の古墳で、北陸でも最大級の古墳であるらしい。 まず「前方」と呼ばれる四角い部分に登る。登ってまた山が見える。左が「和田山」で、右が「秋常山」である。 続いて「後円」と呼ばれる丸い山に登る。 丸い、広い広場である。海の方が少し見える。続いて「二号方墳」の方へ降りる。秋常山には古墳は二つしかない。 二号方墳は小さいが側面に扉があり、戸を開けて入ることが出来る。 石棺が見える。副葬品もあったらしい。頂上に埴輪が並んでいる。実際にも埴輪はあったらしい。 二号方墳空は車を置いた八幡神社が見える。 ■次回登山は、6/16加賀白峰の「西山」へ■ 2020年11月03日(祝)12回 「和田山・末寺山・資料館」散策 二日前久しぶりに能楽堂に出勤して、能「鵺」の太鼓を勤めた。半分引退の身、久しぶりの舞台は緊張する。楽屋で小松市ではよく熊がでるなー、こまつ市では無くて「くまつ市」だな、と冗談話。 今日は午前中が晴れるらしい。急に思いつき近くを歩く事にした。一人だとさすがに熊が怖い。そこで周りが道路で、住宅があり賑やかな「和田山・末寺山・秋常山」を徘徊する事にした。和田山駐車場に到着。新しい「能美ふるさとミユージアム」が開館したようだ。建物の横の階段から登り始める。8.35分。 登ると「霊碑」ある。昔の忠霊塔だろうな。案内板を見ると、ここに古墳が13基ある様だ。熊が怖いので見通しの良い広い遊歩道を歩く。 和田山1号墳・円墳 和田山2号墳・円墳 和田山3号墳・円墳 和田山23号墳・円墳 和田山4号墳・円墳 和田山6号墳・円墳 和田山12号墳・円墳 発掘した順番で名前が付いたらしいな。一度降りて、また登る。 こちらも和田山である。昔は山続きだったが土砂が切り出されたらしい。こちらの山には古墳は一つだけある。和田山5号墳・前方後円墳。 古墳の終わりに「白髭神社」が建っている。長い階段を降りると神社の鳥居。この神社は昔「石川縣十名勝」に選ばれていた。 末寺山に向かって歩くと「末寺」信号に出る。左折して適当に末寺山登山口の方へ歩く。町の人に登山口を聞いたら、最近熊が出たから登らないほうが良い言う。登山口でも畑の人に用心しろよと言われる。今日は末寺山から秋常山まで歩く予定だったが、広い遊歩道で三角点まで往復で、すぐ戻る事にした。末寺山にも10基以上の古墳がある。二つだけ通る。 末寺山6号墳・前方後方墳 末寺山5号墳・前方後円墳 一番高い所の広場にあずま屋がある。 あずま屋の前の高みに三角点がある。
こども広場の長い滑り台。うーん、やめとこう。 駐車場に戻ってきた。10.00時。「能美ふるさとミユージアム」に入館。 古墳の出土品が並んでいる。 立山の曼荼羅は見た事があるが「白山曼荼羅」は初めて見た。 ■次回登山は、11/8敦賀「天筒山」へ■ 2019年12月07日(土)11回 「和田山・末寺山・十名勝」散策 寒くなってきた。出るのが億劫だが、連れが居ると有難い。午前中を目標にS女史と能美古墳群の「和田山」と「末寺山」を歩く事になった。和田山に「石川県十名勝」の「白髭神社」があるので、ついでに女史がまだ歩いていない、近くの「石川県十名勝」を案内する事にした。十名勝については前回の散策に詳しく載せた。 9.00時に、なかうみの里で合流して能美市佐野町の「狭野神社」に寄る。鳥居横に「石川縣十名勝」の大きい石碑がある。 広い境内で、「陶祖神社」もある。佐野生まれで良質の陶土を発見し、佐野窯を創始した斉田道開が祀られている。社叢は能美市の文化財になっており、大きな神木は椎の木らしい。 続いて能美市寺井町の「奥野八幡神社」に寄る。背の高い石碑がある。「明公園九谷庄三碑」が石川県十名勝となっているが、この碑の事と思われる。 真ん中は「九谷神社」と書いてある。九谷庄三など九谷焼に尽くした人を祀っているらしい。庄三は九谷焼中興の祖と言われ、寺井窯を開いた人らしい。 続いて「和田山」の駐車場に来たら、工事中で締め切ってあり入れない。どうも資料館を新たに建設中らしい。大きな建物が出来上がりつつある。山すそを周って南側の駐車場に車を置く9.55分。 登ったら、すぐ霊碑のある広場に登り着く。 すぐ横から古墳が始まっている。「国指定史跡能美古墳群」。和田山・末寺山・秋常山と他に寺井山・西山の五山を云う、と書いてある。全部で130基以上あるらしい。紅葉しているのはドウダンツツジかな?。 「和田山」は二つに分断されている。間にキャンプ場がある。一度下に降りてその先の「城山」と云う標識を登る。 道路に降りたら白山が見えた。真っ白になって来たぞ。 登り返したら大きな前方後円墳に出た。「和田山5号墳」である。 前方後円墳の終わりに「久常白髭神社」がある。少し長い石段を降りると鳥居があり、「石川縣十名所」の石碑がある。10.40分。 ここから県道4号線を横断して、向かいの「末寺山」に登り出す。 山に入ってすぐの分岐を右に入る。少し藪っぽくなっている。 「末寺山2号墳」の標識からすぐ後ろの高みに登ると、三角点がある。
三角点の下に広場があり、あずま屋がある。ここで昼食。11.10分。 末寺山にも大きな前方後円墳がある。ドウダンツツジの垣が奇麗だ。 末寺山から降りて、車を置いた処迄戻る。12.25分。、まだ時間が早いので、近くの「県指定史跡・吉光の一里塚」に寄る。400年ほど前の江戸時代に、江戸日本橋を起点に一里ごとに塚を築いた跡らしい。石川県では現存するのはこれ一つとの事。小松の我が家の前は北国街道であり、近くに一里塚があったらしい。 家へ帰る時ついでに、小松にある「石川県十名勝」にも寄って来た。粟津近くの四丁町「気多御子神社」である。 ■次回登山は、12/11富山県「頼成の森」へ■ 2017年01月31日(火)10回 「石川県十名勝」を探索 何処か近くを一人で歩くつもりだったが、滅茶苦茶寒い。時々小雪が舞う。どうも大腸癌手術の後遺症で寒いと指先が痛い。諦めてこの間から考えて調べていた「石川縣十名所」を車で探しに行く事にした。十名所とは今年登った「寺尾観音山」と「和田山」の白髭神社の「十名所の碑」の事である。ネットで調べると、 昭和2年5月21日に「新愛知新聞」で中部日本各府県新十名所選定事業を行う旨が新聞記事に載りました。それには、先に一般投票で名古屋市の十名所を選定し、好評を博したことから、隠れた名勝を世上に紹介するため、中部県下毎の新名所を投票で選定する旨が記載してあります。昭和4年4月21日の新愛知新聞に、福井、石川両県の「新十名所」を選定として記事があり、石川県は次の通りの十ヶ所である。
現在の加賀地方の場所が多い。①気多御子神社、⑥狭野神社、⑨明公園九谷庄三碑、の三ヶ所を探せば、ほかの七か所は観光で周ったことがあるので、十名所踏破と言う事になる。 ①番の「気多御子神社」 まず「気多御子神社」に参拝。住所は私の住んでいる小松市の「四丁町」だった。私の家の前の北国街道を加賀市の方へ一直線、小松製作所を過ぎたあたりの「四丁町信号」を右折、次の三差路を左折で大きな社叢の神社の前に車を置く。 広い大きな社叢に囲まれた神社である。入ってしばらく進むと左の小山の上に「石川縣下十名所地」の碑を見付けた。 由緒を読むと「延喜式内社で室町頃には、御神階最高の正一位を賜った。その後戦国の世となり、一向一揆とか火事で神宝・古文書の多くが散逸した。その後加賀藩の前田家の尊敬厚く、三代藩主前田利常公により社殿が再建された。 境内はよく手入れされていで、大木が残り気持ちの良い神社である。 鳥居がある小さな社は「末社・菅原社」で、平安時代中頃の創建との事である。 ⑥番の「狭野神社」 続いて「狭野神社」を探しに行く。能美市の佐野町にあった。小松の旧国道8号線を能美市の方へ進み、イオンの「長田南信号」を右折して「河田町北信号」を左折すると佐野町に入る。信号を右折するとすぐ大きな社叢の「狭野神社」に出た。手前の広場の先にも鳥居がある。ここは参道であるらしい。 此処も広い境内の神社である。 鳥居の横の石垣の上から「石川縣十名勝」の碑が頭を出している。 境内を進むと「陶祖神社」があった。由緒によれば「佐野陶祖神社には、良質の陶土を発見し佐野窯を創始した、斉田道開が祀られています。斉田道開はこの佐野村で生まれ、16歳で若杉窯に修行に入り、27歳からは京都・伊万里・美濃と各地の陶地を学び歩き、40歳で佐野に帰り佐野窯を始めた。九谷焼の上絵に荒窯と金窯の二度焼の技法を編み出し、絢爛豪華な佐野赤絵の基礎を築いた。73歳で没した」 境内の社叢は能美市の天然記念物の指定になっている。貴重な原始林らしい。参拝。 ⑨番の「明公園九谷庄三碑」 次に探した「明公園九谷庄三碑」が難題だった。ネットでなかなか引っ掛からない。ようやく能美市寺井町の「奥野八幡神社」かもしれないと見当をつけて探しに行く。場所はこの間歩いた和田山古墳のすぐ近くだった。寺井警察署のすぐ隣だった。神社の横の南参道入り口に車を置く。正面に回って鳥居を撮る。 入ってすぐ左に、大きな石碑が二つと、その真ん中に祠が一つ。祠に説明文無し。石碑も欠けていて説明文もよく読めない。何の気なしに見過ごした。神社に参拝し、あまり広く無い境内のこの石碑を遠くから眺めていたら、欠けているが「九谷庄三記功碑」と読めた。やはりこれが九谷庄三碑ならば、ここが「石川縣十名所」らしい。十名所の案内は何処にも無かった。とすると真ん中の社は「九谷神社」らしい。九谷庄三は九谷焼中興の祖と言われ、寺井窯を開いた。青色顔料「能登悟須」を発見、庄三風と呼ばれ、外国に輸出用に焼かれ、その名を外国に知られる。 その隣に「七重の石塔」がある。謂れを読むとまことに面白い。秀吉朝鮮出兵の時、加藤清正が二基持ち帰り、前田家に贈りその一基は兼六園にある「海石塔」であり、これは相手の一基である、とかとかーー。 神社に参拝。 「蝋梅」ロウバイが咲いていた。 これで石川縣十名所は全部回ったような気がする。 昔の写真 金沢市の鳴和町の裏通りを入ってゆくと、春日町2の民家と、石の電柱の間に「石川縣十名所・義経旧蹟鳴和瀧」の石碑がある。この横を山の方へ入って行くと、神社があり、横に「鳴和の滝」がある。木の樋からちょろよろと水が落ちる、ちょっと情けの無い滝になっている。 これが③番の「義経旧蹟鳴和瀧」である。 ②番の「塩屋海岸」のつもりで、新婚早々の頃の「片野海岸」の写真を引っ張り出した。この辺りでは片野海岸や黒崎海岸が海水浴場や景色が良くて有名である。しかしよく調べてみると、大聖寺川の河口に「塩屋」という町を見付けた。あまり景色が良いとか聞いたことが無いので、今度一度見てこようと思う。 ⑧番の「手取峡谷」のつもりである。雲龍山の近くの黄門橋の上から見た手取り峡谷である。 ⑤番の「九十九湾」は能登である。遊覧船に乗った記憶があり船の底から魚が見えるようになっていた。写真を探したが出てこなかった。 ⑦番の「尾山神社」はもちろん金沢。能楽師の若手がここで結婚式を挙げた。写真無し。今度撮ってくる。 ⑩番の「曾宇寺尾山観音」の石碑である。今年登った寺尾観音山の途中の岩の上に立ててある。 右は ⓸番の「久常白髭神社」の石碑である。三日前に歩いた。 これで「石川縣十名所」を全部踏破した事にしておこう。 ■次回登山は、2/4「茶臼山へ■ |
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2017年01月28日(土)9回 「和田山・末寺山・秋常山」を散策 S女史と、1/7日以来初めて歩く事になった。毎月28日は、亡き奥さんの命日なのでご坊さんが、月参りのお経を挙げにいらっしゃる。午後12.30分に「なかうみの里」待ち合わせ。今日は二日前にちょっと歩いた「和田山古墳」から能美古墳群を歩く予定。 待ち合わせのロードパーク「なかうみの里」に着いて、ここが「ブッショウジヤマ古墳群」だと気が付いた。トイレ棟の前に古墳が復元されている。トイレ棟の辺りに2号墳があった様で、副葬品が出たと書いていある。 ここ「なかうみの里」からは「白山」望める。今日はよく見える。 12.30分に「ブッショウジヤマ古墳群」を出て、12.45分に「和田山古墳群」に到着。S女史は初めてらしい。二日前と同じ道を登る。「霊碑」がある。雪はもう消えている。 「和田山城」も円墳らしい。周りが空堀になっている。円墳のほとりを進み、、二日前と同じ道を降りるのも癪だから、キャンプ場へ直接降りる道に入ったが、間違えて元の広場に出てしまった。 遊園地とキャンプ場を横切って、二つ目の「和田山古墳」に登る。前方後円墳がある。その先より「白髭神社」に降りる。長い石段を降りると、 神社鳥居の横に「石川縣十名所」の石碑がある。今年歩いた「寺尾観音山」の石碑と同じである。13.25分。 白髭神社の前から北へ進み、末寺町信号を直進すると、「末寺山古墳群」に登る道がある。 墓地を抜けるとすぐ末寺山の「あずまや」がある。目の前の瘤に三角点がある。コーヒーを入れてもらって休憩。13.45分。 コーヒーを飲み終わって、目の前の小山の「三角点」タッチして、末寺山の古墳を通って、一度和田山に置いた車まで戻る。 車に乗り換えて「秋常山古墳群」に向かう。八幡神社に車を置く。14.45分。秋常山古墳を整備するので場所を少し下げて新しくしたらしい。鳥居の左手に見えるのが2号古墳で中が展示室になっている。 神社に参って右手に回って、北陸最大の「前方後円墳」に登る。ここは円墳の上である。広い丸い広場である。海の方を臨む。 二号墳の後ろから1号墳を見る。左が後円墳で右下が前方墳である。 2号墳の室内展示場は、冬季封鎖で入れなかった。外からガラス越しに「石棺」が覗けるようになっている。屋根の上に埴輪が並べてある。実際に周りにこのような埴輪が出てきたようだ。向こうに見える山は、和田山と秋常山である。 この秋常山古墳群の隣の「西山古墳群」も、国の整備の手が入ったらしい。其の内に入れるようになるだろう。楽しみだ。 帰る途中に白山が見えた。車を停めて寫した。能美市辺りからも白山は絶景。15.40分なかうみの里の車に到着。 ■次回登山は、01/31「石川縣十名所」探し。上の項■ |
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2017年01月12日(木) 1月12日に私の社中のお稽古始に当たり、金沢能楽堂の別館、第3舞台で「太鼓の打ち初め」を行った。全員が一番づつ「独鼓」を打った。 小さな社中ですが、今年もよろしくお願いします。 二週続けて土日が空いているので、天気が良ければ近くを歩こうと、S女史と約束していたが、この冬最大寒波の襲来の予報。抗がん剤の後遺症で寒いと手足の先が痺れる。天気が悪そうなので前日に中止を申し込んだ。その一週間後も前回にも増しての寒波が来た。北海道や新潟、山陰の方に被害が出た。滅茶苦茶寒いが、どういう訳か石川県だけは積雪が少ない。40センチ積もると脅されたが、5センチくらいで済んだ。 2017年01月26日(木)8回 「和田山」散策 今日は午後からお稽古なので12時に家を出発したい。久し振りに青空である。こんなに晴れるのは今年初めてかも知れない。出入り一時間くらいでちょっと歩こうと「和田山古墳」へやってきた。 和田山末寺山史跡公園の、能美市立歴史民俗資料館前の広い駐車場に車を置く。10.20分。資料館にはまだ入ったことが無い。今度入ろう。長靴を履いてすぐ前の階段を登る。スノーシューの跡がある。階段は登り難いだろうね。 並んだ古墳の横を歩いてゆく。誰も歩いていないかと思っていたのに足跡が多い。ナイロンの袋を下げた人が前から来た。何をしているのですか?と尋ねたら、ゴミ拾いだという。ご苦労さんです。有難うございます。 一番奥の円墳の上に登る足跡があったので登ってみる。山の方が透けて見えて、白い山並みが見える。白山かも知れないなと思ったが、はっきりとしない。 古墳群を通り過ぎると一度山を降りる。道に降りるまで白山は見えなかった。道に出たら「白山」は見えたが電線が邪魔をしている。時間がないので電線の向こうまで歩く余裕がなかった。 道を少し歩くとキャンプ場に出る。向かいの和田山の前方後円墳まで登らずに、キャンプ場を横切って車まで戻った。11.15分。40分ほどの散歩だった。久しぶりなのでなんとなく疲れた。 ■次回登山は、01/28同じ「和田山・末寺山・秋常山」上の項■ |
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2016年01月13日(水)7回 「和田山・末寺山・秋常山を歩く まだ正月気分が抜けない。夕方より出かけるが、それまでに運動のために、ちょっと歩きに来た。今回は「能美古墳群」。国指定史跡の「和田山」と「末寺山」と「秋常山」をいっぺんに回る予定。旧国道8号線をまっすぐに進むと、15分で和田山末寺山史跡公園の駐車場に着く。10.30分。駐車場の右の方からの遊歩道を登る。 すぐ「霊碑」に出る。昔の忠霊塔だろう。 霊碑の後ろが「和田山城址」である。古墳の上に砦があったようだ。周りは空堀に囲まれている。今年に入ってから歩いている「虚空蔵山」や「鳥越城山」に籠る一揆軍の、攻撃基地として使われたと書いてある。 戻って古墳群に沿って歩く。丸い古墳が7ヶ8ヶ並んでいる。 並んだ古墳がなくなって、さらに尾根を進むと、一度周遊道路に下りるが、すぐキャンプ場に出て目の前の小山の階段を上る。昔は間に丘陵が続いていたようだが、削り取られてキャンプ場になっているようだ。登ると「和田山5号墳・前方後円墳」に出る。 中々大きい前方後円墳である。上を歩いてみる。 この古墳の先に神社がある。古墳を降りて神社の裏から正面に回る。「白髭神社」 神社の前の長い石段を、滑らないように気を付けながら降りる。 一番下まで降りると石の鳥居に出る。「石川縣十名所」の石碑が建っている。昔は隠れた名所だったらしい。今は人ひとりいない寂しい場所である。 神社前を左に行くと、すぐ信号の交差点である。この「末寺」信号を左に少し歩いて、向かいの末寺山古墳群のある小山に行く。 登り口に大きな案内板がある。地図の所だけ拡大して載せた。寺井山古墳群は、ほとんど消滅したようだ。秋常山古墳群の隣の、西山だけまだ歩いたことが無い。 末寺山古墳群の丘陵を登り出す。谷を登ってゆくと十字路に出る。右へ広場の表示があり、登ると小さな広場に東屋ががある。あずま屋の背後は柵に囲まれた水道施設。あずま屋の前の高みをよじ登ると三角点がある。11.20分。 末寺山の前方後円墳も、なかなか大きい。 登ってきた道を直進すると、墓地を通って、末寺町の外れに出る。向こうに秋常山古墳群の丘陵が見える。田んぼ道を歩いて向かう。背後は、和田山と末寺山。 秋常町の中へ入り古墳の下まで来たら、八幡神社に出た。いつの間にか辺りは整備されて、明るくなっている。神社も新しくなったようだ。神社にお参りして、境内の右の遊歩道を登ると、大きな前方後円墳の上に出る。 この一号墳は、北陸最大級で140mあるそうである。向かいは後円墳の部分である。 一番高い所に登ると眺めが良い。和田山と秋常山が見える。左の和田山から歩いて来た。今からまたあそこまで歩いて戻る。11.50分。 隣に2号墳がある。2号墳には内部に入る施設がある。行ってみたら冬季封鎖中だった。 ぶらぶらと歩いて帰る。白髭神社の前を通り、キャンプ場の中を通り、12.35分に車にたどり着いた。ちょうどみぞれが降り出した。歩いている間は降らなくてよかった。 ★次項2016年・第6回登山は、1/16「俱利伽羅山」へ★ |
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2013年02月09日(土)6回 「和田山・末寺山」散策 寒いし、うんと楽な山を思い浮かべていて、「和田山・末寺山」を思い出した。少し天気が回復してきたので、午後から出かけた。和田山の駐車場に12.45分に着く。案内板を眺めていたら、キャンプ場の横の山は、和田山の一部では無くて「末寺山(城山)」と書いてあった。県道を挟んだ山は「末寺山(寺山)」になっていた。 地形的におかしいな?、と感じていたら、その後白髭神社のあるこの山は、やはり和田山の一部だったらしい。その後2016年看板では和田山に変更になっていた。丘陵の間が削られてキャンプ場になったようだ。 まず「和田山」に登る。古墳が幾つも連なって並んでいる。地図を見ていて、北の端にある「和田山城本丸」をまだ訪れていないので行ってみる。9号墳の上が櫓台と書いてある。北方が少し望めて、下に「わだやま荘」が見える 。 古墳まで戻り、1号墳から7号墳まで進むと、歩道は一度降って下の道に出る。少し歩くとキャンプ場の近くに出て、向かいの「城山」に登り返す。頂上に5号墳があり東の方が望める。 古墳の裏に屋根が見えたので、行ってみたら「白髭神社」に出た。白髭神社は琵琶湖のふちに総本社がある。謡曲に「白髭」があり、謡楽師として訪れた事がある。石川県では珍しい神社だ。長い階段を降りたら鳥居に出た。鳥居の横に「石川県・十名所」の大きな石碑があった。 石川県十名勝は「寺尾観音山」の登山路途中に大きな石碑があった。また金沢の鳴和に、「鳴和の滝」を探しに行ったとき、道路分岐に大きな石碑が在った。 ネットで「十名所」に付いて調べたら、図書館のデーターベースに記事があった。 ①昭和2年5月20日 新愛知新聞で中部日本各府県新十名所選定事業を行う旨が新聞記事に載りました。それには、先に一般投票で名古屋市の十名所を選定し、好評を博したことから、隠れた名勝を世上に紹介するため、中部県下毎の新名所を投票で選定する旨が記載してあります。②昭和4年4月21日の新愛知新聞に福井石川両県の新十名所を選定として記事があり石川県は次の通り。
4番白髭神社は昔は名所だったらしい。長い階段を降りたら所は末寺町だった。久常と云う地名は今は無いようだ。県道を横断して「末寺山」に登る。5号墳という大きな前方後円墳がある。その横の高みに登るとあずま屋のある広場がある。案内板には寺山広場になっていた。あずま屋でパンをかじる。あずま屋前の高みに三角点が在る。 車を置いた看板の中に「吉光の一里塚」の記入があったので、ちょっと寄ってみた。県内で一里塚が現存しているのは珍しく、石川指定史跡となっている。この間から北陸街道を少し歩いたので、興味があった。北国街道は此処を通っていたのだ。粟生町に街道宿が在ったらしい。 ところで北国街道はここから、小松の我家の前まで続いている。我家の四軒隣の「お茶の長保屋」さんの前に「小松の一里塚の跡」と云う表示板がある。 **次回登山は、2/10「西山」へ** 2011年07月29日(金)5回 「秋常山」古墳散策 新聞に「秋常山古墳群」の整備が終わった。秋常町の住民がヒガンバナを植えたと載っていた。その秋常の町にお弟子がおり、用事があり届け物に行った。帰りに、ついでに古墳を見に行くと言ったら、彼女が自分の工場の後ろに案内した。なんとそこが「秋常山古墳群」だった。ここから行きますか?、と云われたが、ぐるりと大回りして正面に周った。 古墳群と云っても、二つの古墳が整備されただけだ。1号墳が正面にあるので登って行く。「彼岸花を育てています。秋までお待ちください」と立札がある。1号墳は前方後円墳である。 後円の部分が一番高い。ここが秋常山の頂上だ。 前方の四角い部分に降りる。前回は只の広場だと思っていたが、ここも古墳の一部だったのだ。四角く整備してある。 2号墳が隣にある。四角い方墳である。裏へ周ったら扉があり、開館中の札が下に落ちていた。中に入ったら資料室になっていた。石棺が覗けるようになっている。 2号墳の上に埴輪のレプリカが並べてある。実際に埴輪が出てきたらしい。 小さな公園が造ってある。 綺麗な花が咲いていた。 2010年09月12日(月)4回 辰口方面三角点探訪「湯ノ屋山と末寺山」 加賀産業道路沿いに「辰口丘陵公園」がある。いつも前を通っている。園内は広くぐるりと一周できて、車は一方通行である。その中に三角点があることは知っていた。一度探しに行きたいと思っていた。今日も午後が空いたので、先週に続いて三角点探しに行くことにした。ついでにこのあたりの、平地にある三角点も探そうと思う。相棒K君と正午に、辰口丘陵公園入り口の駐車場で待ち合わせることになった。三角点は「湯ノ屋山」としてまとめた。 ①▲「河田」三等三角点 11.30.S女史と「なかうみロードパーク」で待ち合わせ。加賀産業道路で相棒の待つ丘陵公園に向かうが、その途中の三角点に寄る。初めて三角点。本日の①番。
下八里町の信号を右折して国府台に入り、100mで右折して、また100mで右折すると、突き当りが加賀産業道に面した藪である。曲がったところに家が三軒ほどある。ここに車を置いて藪の高い所に入り込む。30mほどで三角点到着。ちゃんと三角点探訪の札が下がっていた。 ②▲「湯ノ屋」四等三角点 すぐ戻って丘陵公園駐車場の相棒と12.00に合流。公園内の一方通行を800.mほど走ると、右に広い、ちびっ子のレーシング場がある。その先の道路沿いの高みに三角点があるはずである。本日の②番。
100mほど登ったら一番高い所に三角点があった。登った斜面は下刈がしてあり、植樹がなされていた。今日探す三角点をまとめて載せるため、ここを「湯ノ屋山」と勝手に命名した。湯ノ屋は地名である。湯は辰口温泉の湯であろう。 ③▲「物見山」三等三角点 さて今日の三角点の③番目は「物見山」である。産業道路沿いに「物見山運動公園」がある。野球場、陸上競技場、体育館とそろった広い運動公園である。いずれも小高い丘にあるから、ここを「物見山」にしようと実は期待をしていた。所が三角点は、物見山を通り越してタンボに出て、しかも舗装道路の中にあった
しかも鉄の蓋がしてある。 しかしこの中に三角点があるという確信があった。以前、駐車場の中の三角点を探した事があるからだ。蓋をこじ開けたら予想通り三角点があった。札を提げる所がないので、中に入れて鉄の蓋を閉めてきた。 ④番目の三角点は大きな団地「緑が丘団地」の頂上、芳珠病院の前にある。親父もおふくろも入院していたことがあるので、場所は大体見当がついている。病院の前に雑木林の小山があった。ここに違いないと登って行ったら柵で通行止め。 ④▲「下開発」二等三角点 ここは能美市のはずだが、小松市水道局の立入禁止の看板。柵に沿って右・左と藪を漕いでみたが、どこまでも高い柵は続いている。地図によれば、この門から続く道の、突き当りの左の高い所に二等三角点があるはずである。
入れないので仕方がないから、三角点確認はあきらめて、門のそばの木に札を提げてきた。実は内緒だが、身の軽い相棒が、走って行って確認してきた。確かに在り、ほかのグループの三角点探訪の札も下がっていたという。したがって写真は無し。 「2012年夏頃、土木会社よりメールが来て、工事の為道路拡張で、この木を伐採するので、この三角点名の札を処分してよいかと、問い合わせが来た。私が勝手に提げているので、処分してくださいと返事した。律儀な土木会社もあるものだ」 ⑤▲「佐野」四等三角点 ⑤番目の三角点は、佐野町と泉台町と湯谷町に囲まれた真ん中にある。 登り口が判らないので、泉台団地の方へ回り込んで、登りやすそうな所に車を止める。竹藪の中は歩きやすい。筍を取るようで整備がしてある。頂上も竹藪で少し広い。あちこち探して、整備してない荒れた場所に、白いプラスチックの標識を見付けた。 三角点は角が全部欠けて、ただの石ころに見える。プラスチックの白い標識が無ければ、見つけられないだろう。
この写真の先に三角点がある。杖は蜘蛛の巣を払うのに必要品だ。それに藪蚊に閉口する。 ⑥▲「吉森」三等三角点 次の三角点⑥番目は、「末寺山」である。今日のパーティの二人は、まだ三角点を見ていないので連れてゆく。 佐野からはすぐ近くだ。いつもの登り口から入り、東屋で藪蚊に悩まされながらコーヒータイム。この時三角点札が無いことに気付き、車まで取りに戻るが無い。
古墳を回って登り口まで戻ったら、落とした札を見付けた。そこでまた3度目の登り返しで、この写真を撮ってきた。 ⑦▲「上清水」四等三角点 三角点⑦番目は、大きな東レ工場の近くの田んぼの中にある。道を一本間違えて探すのに苦労した。地図を読む能力が必要だ。勉強になる。証拠写真を撮るには、まず草抜きから始める。
⑧▲「出口」四等三角点 続いて手取川のふちに、1.5㌔ほどの間隔で並んでいる四っつの三角点を探す。⑧番の三角点は出口町の近く。東レ工場を過ぎた所を川の方に曲がり、突き当りにあるはず。突き当りにポンプ小屋みたいなものがある。その裏に荒れたゴミ捨て場みたいな空き地がある。草茫々の、この空地を散々探し回った。三角点は石柱とばかり思い込んでいたが、ここの三角点は金属の物だった。しかも丸くセメントで固めてあった。小屋の近くのコンクリの地面にあった。
⑨▲「山田」四等三角点 今日の⑨番目の三角点は、手取川をさらに遡った地点にある。堤防にある水害記念碑の登り口前に車を置く。その先の田んぼの中の、ポンプ小屋の敷地内に三角点はあった。向こうに見えるのは山田町である。 中に入れないので、金網に札を提げてきた。
金網の上から写した、金属製の四等三角点である。 ⑩▲「岩内」四等三角点 さらに河の上流に行くと、田んぼの農道に⑩番目の三角点があった。農道に四角い穴があり、その中に石柱の三角点が鎮座している。
⑪▲「三ツ口」四等三角点 さらに上流にもう一つ⑪番の三角点がある。先の岩内の三角点とそっくりである。これも農道にある。
向こうに見える町は宮竹町である。三角点名は「三ツ口」になっているが、三ツ口町とはちょっと離れている。この後、灯台笹町のそばの灯台笹三角点の下の広場まで行ったが、時間も17時を回っている。この三角点は藪漕ぎが酷そうなので、今回はここまでとして、広場で相棒と別れた。今日は三角点を11か所回って探した半日でした。 2009年12月30日(水)3回 「末寺山」三角点 「末寺山」は登ったが三角点があることは気が付かなかった。今晩から大寒波襲来とテレビが騒いでいる。が、まだ晴れている。買い物のついでに歩きに行く。今回は末寺山に最初に入る。駐車場はない。農道に車を置く。 入り口案内板を入るとすぐ分岐道の表示がある。 右にこの表示に入ってゆく。「末寺山2号墳・前方後円墳」の標識がある。手入れのしてない只の藪の小山だ。 その先に広場があってあずま屋があった。大きな柵に囲まれた四角の給水施設がある。立ち入り禁止と書いてある。 広場を挟んで反対側が、先の「末寺山2号墳・前方後円墳」だ。其処が一番高いので、藪を分けて登ってみたら三角点が鎮座していた。余り三角点があることは知られて居無いようだ 一周する遊歩道を進んだら、整備された5号の前方後円墳があった。少しずつ整備しているようだ。
和田山と末寺山の間は広い道路が走っている。和田山も二つに分かれており間にキャンプ場がある。ここに車を回し城山の方に登った。大きな「和田山5号墳」があり、さっきまで居た末寺山が見えた。降りてきたら雨が降り出した。和田山の本体に登るのは諦めて、今年の里山逍遥は終わった。 2008年12月29日(月)2回 「秋常山」初歩き 今年もあと二日。明日からこの冬一番の冬型に突入するという。今日はまだ天気が良い。どこか近く歩いてこようと、午後2.30.家を出る。「秋常山」は傍の道はいつも通るが、寄った事は無い。 和田山と末寺山の間を通って、秋常の集落に入ったら左に狭い村の中を抜ける。神社がありその裏が小山で工事中である。ぐるりと一回りしたら、墓地の隣に小公園が造ってありトイレもある。駐車場に車を置いて小山に登り出す。秋常山自体が二つの大きな古墳になっている。しかし工事中で入るなと書いてあるが、工事は休みなので入り込む。 秋常山一号墳に登る。工事は大体済んでいる。 登ると山の方が見える。隣の小山の雑木林の間から、4日前に登った倉ヶ嶽のドームが見える。 二号墳は工事中だが登ったら、古墳の中の石棺が覗ける様になっている。 二号墳から南方に、小山が二つ見えた。右が末寺山で左が和田山である。 このあと瀧波山の三角点を探しに行く。 |
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2006年05月22日(月)初登山 「和田山・末寺山」散策 自宅を出て国道8号線を、寺井町に向かって走り、8号線バイパスの下を直進すると、すぐ「和田山・末寺山」史跡公園に着く。ここまで15分。ここは国指定の史跡で和田山末寺山古墳群と呼ばれるもので、整備されて公園になっているとの事。いつも横を通っているが中を歩いたことが無いので、空いた時間に歩きに行く。 駐車場に看板があり「健康の道・史跡めぐりコース」番号順に歩きなさいと書いてある。スタート地点の広場の池の橋を渡って丘を登ってゆくと、いきなり丸い古墳丘に出た。幾っも繋がっている。7っも8っもある。一直線に並んでいるようだ。松の木や楢の木の林の中で気持ちがよいが、誰も歩いている人がいない。 立札に拠れば古墳時代、4世紀から6世紀までに作られたこの地方の首長集団の古墳で全部で26基が確認されるとのことである。城も作られたことがある様だ。 コース番号が抜けて判らない所もあるが。古墳の周りをぐるりと回って、一度山を降りてもとの看板の前に出た。続いて和田山の周りを一周するコースになっている。 大体一回りしたら広場の先のキャンプ場に出た。コースは和田山に隣接している末寺山の「ツツジ広場」に登るよう指定されている。広場より末寺山が道路と田圃をはさんで向こうに見える。昔はここと向こうが繋がっていたようだが、間の丘陵が消失したらしい。 広場を降りて道路を横切り田圃道を歩いて、向かいの末寺山に入っていく。こちらはあまり入る人が居ない様で荒れた感じがする。ここにも幾つもお椀を伏せたような古墳がある。草茫々の遊歩道を回ってもとの道を戻る。 この少し先の、お弟子さんの裏山の「秋常山」にも古墳があり遊歩道があるといっていたが、去年熊が出たとのことで行くのはやめた。こんな周りが田圃の里山にも熊は居るものだろうか。 車までもどる。1時間くらいぶらぶらと歩いた感じだ。 |