2006.9.より登山順
[日本百名山] 大山 1709.4m (鳥取県)128 |
第1回登山 2015.09.12-13 |
2015年09月12-13日(土・日)初登山 美術館と大山 日本百名山の鳥取県の「伯耆大山」は、遠いので登ることをあまり考えたことがなかった。しかし登れるうちに登ることの出来る百名山がないかと、探していて「大山」を見付けた。標高差は950m位。少々辛いが私でもなんとか登れそう。私なりに計画を作ってみたら、一緒に行こうという人が6人も集まった。N氏・T女史・K女史・М女史と私が小松より出発。 小松の市民病院の広い駐車場の隅で、8.00時に集合。5人で一台の私の車に乗り出発。敦賀より舞鶴若狭道を走り、中国自動車道に合流してすぐの「社パーキングエリア」に11.30分に到着。ここで大阪からの、N女史とT女史と合流。これで全員7名が揃う。食堂で昼食。車二台になる。 中国道より米子道に入り、13.35分に「蒜山高原SA」で休憩。初めて「大山」が遠くに見えるが、裾野だけ見えて頂上は雲の中。 今日は観光に、島根県安来市の「足立美術館」を回る予定。私は昔一度、謡曲仲間とバスを仕立てて訪れたことがある。今日の仲間は皆さん初めてらしい。安来ICで下り、14.40分に美術館に到着。中々遠かった。6時間半もかかっている。美術館は撮影禁止だが、日本一という庭園は撮影可。写真を載せておく。 窓が額縁になっている。 遠くの借景の滝との間に、県道が走っていることに、帰りに気が付いた。 満足して米子へ急ぐと、大山のシルエットが見えた。今日の宿は「大山寺」の門前通りの旅館。 17.30分に「とやま旅館」に到着。 夕食無しのプランなので、町の方へ食事に出たが、適当な場所が無く、スーパーで食事とお酒とおつまみを買い、宿に帰って部屋で宴会。皆さんは酒豪ぞろい。 年寄りは温泉に入って早めに寝る。いい温泉だ。 2015年09月13日(日)初登山 6時に宿を出発予定。「夏山登山道」という名前の登山路を登る予定。朝食はお弁当として受け取り、宿に車をそのまま置き、帰りもお風呂に入れてもらえる、と云う有難いプラン。皆さんが部屋で朝食を食べている間に、6.20分一人で先に出発。宿を出て参道をちょっと下がり「モンベル店」の方へ左折して大きな橋を渡る。橋の上より下の方にに米子の町と海らしいものが見える。 橋を渡ったところに「南光河原駐車場」という、登山者用の大きな駐車場がある。もう何十台も止めてあるのにびっくり。駐車場を過ぎて50mほどで左に「大山夏山登山道」という標識があった。6.30分に入山。 5分で車道から直通の「夏山登山道」に合流、左折してあとは頂上まで一本道。6.44分に右手に「阿弥陀堂」を望む。 6.50分「大山一合目」の標識。 早速「ブナの木」が混じってくる。 7.15分に「大山二合目」の標識。 丸太の土砂止めの階段が続く。 大きなブナの木が続く。 7.40分に「大山三合目」の標識。ここで仲間のに追いつかれて合流。 8.00時に「大山四合目」の標識。雨は降らなくてありがたい。霧が出てきた。午後は晴れてくるようだ。 8.23分に「大山五合目」の標識。登山客がどんどん追い越してゆく。仲間はもちろん先へ行っている。 五合目には「山ノ神」の祠がある。昔は日の出を拝む遥拝所だったらしい。 8.30分に「行者谷別れ」の分岐。下山はこの道を下がる予定。 「カニコウモリ」 見かけない花だ。 8.55分に「大山六合目」の標識。 六合目には避難小屋がある。ベンチがある。展望図がある。下に米子の街と海が広がる展望地らしいが、霧で残念。何も見えず。 「オニシオガマ」らしい。二週間前に苗場山で名前を覚えた。 「アキノキリンソウ」 9.20分に「大山七合目」の標識。急坂。森林限界を抜けたようだ。 「ハクサントリカブト」 「アザミ」 「ミヤマコゴメグサ」 「ヤマシロギク」? 10.00時に「大山八合目」の標識。 「ハクサンフウロ」 どうやら頂上台地に登りついたようだ。木道が続きだした。 10.15分に「大山九合目」の標識。周りにハイマツみたいな木が増えてきたが、ハイマツではなくて、これが特別天然記念物「ダイセンキャラボク」らしい。 「石室」回りの道が分岐。帰りはここから降りる。 頂上避難小屋に到着。その時霧が晴れて頂上がすぐ前に見えた。頂上にも人が見えたので、そのまま頂上へ直行。 10.30分に頂上到着。「大山頂上1710.6m」の標識がある。ここから先に「剣ヶ峰」という最高地点があるが、登山路崩落が激しく立ち入り禁止。ここ「弥山」が大山の頂上と云う事になっている。剣ヶ峰の方が見えると良いのだが、残念ながら見えない。弥山の三角点ピーク迄がようやく見える。 振り返ると「頂上避難小屋」。この向こうに「米子の街と美保湾と中海」が広がる大展望の写真を見たことがある。ちょっとだけでも晴れてくれないかなー。 「避難小屋」に入ったら、仲間が迎えてくれた。もうとっくに食事を済ませてお待ちかね。私としては11.00時到着の予定を30分縮めて大満足。慌ててコーヒーを入れてもらって、宿特製の細長いおにぎりを頬張る。広い大きな避難小屋で、なんと売店があり飲み物を売っていた。 11.05分に全員で頂上に登り返し、全員で記念撮影。これが今回のメンバー全員。 頂上台地に、8の字に付いた遊歩木道を下山し始める。 これが「ダイセンキャラボク」 向こうの稜線に登山者が見える。登りはあの道を登った。ちょっと晴れてきたぞー。 11.25分に「石室」通過。大正時代に作られた避難小屋らしい。そばに小さな池が二つあり、立て札によれば「弥山禅定」という行事が行われた霊地との事である。毎年、役僧が登り、閼伽水を取りヨモギを採り、水は仏さまに供え、ヨモギは薬草として信者に配った。この行事は現在も行われている、との事。 11.35分に、登り返して元の道に合流。頂上の方が晴れてきたようだ。 時々、ちらっと平野が見える。中々高い地点にいる。 12.55分に「行者谷別れ」の分岐に到着。元谷の方へ下りだしたら、前方が急に開けて山が見えてきた。地図を見ると「宝珠山」と思われる。 下に見える元谷迄下るようで、物凄い急坂が続いている。ブナの林である。 細い狭い木の段が続く。踏み外さないよう慎重に慎重に。年寄りは緊張する。「ヤマジノホトトギス」が咲いている。 ブナ林の「サラシナショウマ」。ようやく元谷に近づいたようだ。 13.55分に広い河原に降り立った。向かいの高台に避難小屋が見える。 上流にも下流にも砂防ダムがある。その間の広い河原を、気を付けて横切ってゆく。下の砂防ダムの向こう側に、林道の出口が見える。この広い河原に水の流れる川は1メートル位しかなかった。砂防ダムの向こうに平野が見えた。 砂防ダム迄車道が登ってきていた。やっと楽に歩けると思ったら、車道は緊急車両のみ通行可で、登山者道はまた山道に入った。左手の下を河が流れている。 14.35分に「行者登山口」に降り立った。そこは「大神山神社奥宮」の裏だった。 大神山神社奥宮はすごく大きな神社だが、疲れて拝観する元気もなく、ちょっと拝んで正面の石段を下りる。昔は下の「大山寺」と一体の建物だったが、明治の神仏分離令により神社になったようだ ここから下の大山寺までの参道は、自然石の敷き詰めた700mの長い参道である。疲れた身として、滑りやすく実に危ない参道である。 ようやく「大山寺」の門前まで降りてきた。大山寺はこの門をくぐってまた登り返さねばならぬ。へとへとなので門前で礼をして参道を下る。参道にある宿に15.00時に到着。予定通りだったが長かった。先にお風呂に入って待っているよ、といった仲間女性陣は、今からお風呂に入るところだった。あまり遅れなかったようで一安心。私も温泉に入る。 帰途につく。高速に乗るため走っていたら、後ろに大山が突然大きく見えたのでびっくり。 さらに車を進めて、道の広くなったところで車を止め大山を眺める。南の方から眺める大山は、まさに「伯耆富士」と呼ばれるだけあって、富士山そっくりである。今、頂上にいたらすごい大展望だろうと思うと、少し残念。天気の回復がちょっと遅れた。山を眺めてどこから登ったのだろうかと考えていたが、左のシルエットの稜線あたりを登ったものだろう。 太宰治が「富士には月見草がよく似あう」と富獄百景に書いたという。私は「伯耆富士にも月見草はよく似合う」とここに書く。 「蒜山高原SA」から見る大山は横に長く見える。手前の尖った山は「烏ヶ山」と書いてあった。 同じ場所から見る「蒜山三座」は右の山らしい。ここらあたりも登山のメッカのようだ。 中国道の社SAで、N女史とT女史の車と別れ、舞鶴若狭道を走る。運転はN氏に頼んで楽だった。小松着は21.00時の予定が23.00時になってしまった。帰りの温泉にゆっくりしすぎた?。楽しい大山登山行でした。 ●次稿2015年第57回登山は、9/18「取立山」へ● |